ボギー手登根 (手登根安則) という人物は、
米軍が先にいて、宜野湾市民が後から移住した、などというウソを平気でいう。
したがって、米軍の騒音や公害や犯罪や、さらには新基地すら、おとなしく受け入れるべきだというんだな。
沖縄県民は米軍の後から宜野湾に住むようになったとか、先祖が聞いたらグソーから憤怒でいきりたつような、そんなことを平気でネットで拡散する。
基地が出来たあとに基地の近くに移り住み、爆音が煩いと国に補償を求めて起こされているのが普天間爆音訴訟。一審が最高裁で勝訴したので提起すれば確実に勝訴、確実に金が貰えると勧誘して回る宜野湾市議もいます、基地が無くなると困るのは、ほんとうはこのような方々。だから移設を邪魔するのです。 pic.twitter.com/UV82JLnRNp
— ボギーてどこん(浦添新基地建設反対協議会) (@fm21wannuumui) 2018年5月10日
想像してみてほしい。
もし、広島や長崎の、焼き尽くされ何もなくなった写真を出してきて、「ほらごらん、もともとそこには住民はいなかったんだよ」というやつが出てくれば、
怒りをとおりこして胸が張り裂けるだろう。
それと同じことだということに気付いてほしい。
普天間にもともと住民などいなかった、という言説がどれだけ犯罪的で残虐極まりないウソか。
いつから米軍が「そこ」にいたのか。貝塚でも掘れば昔から米軍がそこにいたことが実証できるのか ?
手登根氏がいうように、米軍が先にできて、宜野湾市民が後からやってきたなどというなら、移転すべきは米軍ではなく宜野湾市民のほうになるではないか。
移転すべきは
米軍ではなく宜野湾市民のほうなのか?
もちろん、
すべては米軍を沖縄に押し付けるための
純然たる嘘 なのだ。
ネトウヨ知には歴史の知識がないどころか、
厳密な意味で沖縄戦すら存在していない。
哀れなほど愚かな
つまり、ボギー手登根の思考は、
実に100%「隷従への道」で出来あがっている。
ところが、このような「沖縄のウソ」を必要としている人たちがいる。米軍追従政策を進める政治家とネトウヨ言論界隈である。
沖縄デマの需要は引く手あまた、だ。
ネトウヨケーブルテレビ、チャンネル桜のキャスターを長年務め、極右政権こころの党からも出馬、そして自民党の政治家たちと密接にコラボする。
宜野湾市民が米軍の後に住むようになったんだ、宜野湾市民が米軍に抗議などとんでもないという人物と、宜野湾市長が大の仲良しだという謎。
元宜野湾市長・佐喜真アツシさんのこと ③ 衝撃 !!! 市長の「公務」でボギー手登根氏らのネットテレビにご出演 - Voices from Okinawa
宮崎政久衆議院議員をはじめとした、県民を置き去りにして基地建設に進みたい自民系議員が、こうしたネトウヨとコラボして、「県民投票は県民を置き去り」にしているなどと言いだす。もうお笑い大会でしかない。
県民投票デマ ③ 沖縄自民党 + 極右ネトウヨがコラボで反「県民投票」演説会 - デマ陰謀論を流してでも県民投票を阻止したい人たちとは - Osprey Fuan Club うようよ対策課
もちろん、
チャンネル桜と百田尚樹らの「普天間は原野だった」は、ネトウヨの戯言 (フェイクニュース) だと実証されつくされてきたことだが。
四人に一人の命が奪われ、生き残った人たちが戦地を逃げ回り生死をさまよっているさなか、実に 1945年4月の段階からすでに米軍は後方で基地建設を始めた。
そう、沖縄の米軍基地建設は、本島の沖縄戦が開始された四月の時点から始まっていたのだ。
日本軍との激烈な戦闘の後方では、米軍は着々と焼け残った町や村を巨大なローラーで真っ平らにひき潰し、普天間飛行場に関していえば、六月には整地はかなり大規模に広がっていた。すさまじい物量である。
neverforget1945.hatenablog.com
米軍が記録した写真には、むろん米軍にとって都合のいいものが残されている。米軍の利になるよう細かく記録されたものだ。
当然だが、人や町やすべてを蹂躙した写真など、うかうか残すわけもない。普天間の町並みは、物理的にひき潰されただけではない。記録の上からも抹消された。
それでも、少し注意してみれば、公文書館に残された米軍写真にですら、破壊された我々の町の痕跡を見ることができる。
今日は一枚の写真を紹介したい。
普天間基地の下を通る排水管のパイプ、それを支える礎石として使われたのは、米軍によって破壊された民家の石材だった。
写真解説: 【原文】 854th Engineer Aviation Battalion laid a 54 inch corrugated pipe across #2 strip at Futema, to carry the a water of a small stream that ran at the south end. The stone base for holding the pipe outlet was from a native building.
【和訳】 滑走路南端を流れる小川から水を運ぶために普天間第2飛行場を横切って54インチ波形パイプを通す第854工兵航空大隊。パイプの排出口を支える土台の石は民家から集めたものである。
撮影地: 沖縄
撮影日: 1945年 7月 6日http://www.archives.pref.okinawa.jp/search_materials/photo/searchpics/picsdetail?pid=56078
拡大してみてみよう。
米兵がパイプの排出口を支える石を組んでいるが、2人で抱えなければならないくらいの、これがどれだけ大きな石材かが、よくわかる。
このような大きな石材を使っていた屋敷とは、さぞかし立派なものだったことだろう。
それを想像してもらいたいのだ。
すべて破壊し尽くされ、
普天間基地の下に埋められた。
たくさんの先祖の生活、先祖の歴史。
それを返してくれと言っている。
シンプルな話だ。
そんなことが理解できないで、
基地が先にあったと言い回る奴らは、
頭が悪いのではない。
頭がおかしいのだ。
返してもらう代わりに辺野古を差しだせ、という理屈は、拉致った長女の代わりに、こんどは次女を差しだせという暴言だ。
それでも、奪われたものの代わりに、次女を差しだすのか。
自民や公明の議員どもは、酒宴の席でご機嫌になって、長女の代わりに次女を差しだす腰抜けの男そのものだ。
そんな議員が必要か。
あなたなら
代わりの犠牲を差しだすか。
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